イメージの光




イメージの光



 スティーヴン・キングの『クージョ』だったかなと思うが、記憶違いかもしれない。出てくるなりいきなり殺されることになる人物の背景説明を長々とやっていた。前後のストーリーと関連しない人物エピソードに頁を割いてなんの意味があるのだろうか。

 欧米の作家に多いように感じるが、病的なほど情景や人物の背景を説明したがる人がいる。作家の趣味につきあってるヒマはないので、そういうところにさしかかると僕は自動的に斜め読みモードになり、快速特急で通過します。人の時間を無駄に消費させるなよ。

 過剰な説明は毛嫌いするから、自分で小説(物語)を書くときは当然、快速特急です。情景描写はテキトー。人物の背景は原則として割愛。これが正しい書き方だという自信を持ってるわけじゃないけど、このほうが読者は楽でしょう。ストーリーが粗筋みたいにスカスカになっては物語としての面白みがないから、ふくらませるべきところは充分にふくらませているつもりなんですけどね。


 表現と説明の違いについてはあらためて書くほどのことはないでしょう。小説で説明は、してはいけない。説明する小説は、映画でたとえると、俳優が自分の感情をセリフとしていちいち口に出して言っているようなものだ。説明は読者の頭には届くが、心に届かない。

 表現するやり方は定まった公式や方法論があるわけじゃなく、読者と間に「かけひき」のようなことを、試行錯誤しながら、その時々に応じた形でやらなければならない。僕は物語の中で説明することを自分に禁じてるが、そのかわりというか、奨励してることがある。読者のイマジネーションを最大限に刺激する。このことは物語を書く中で基本のキとしていることです。

 僕は人物の外見すらめったに書きませんが、それでいて読者がその姿をイメージできることをめざして書いてます。何も書かなくても、読者を刺激することで「書いてもいないもの」をイメージしてもらうことは可能だと、僕は考えています。

 この考え方はどの程度一般的なのか、あるいは特殊なのか、これについて物書きの人たちと意見交換をしたことがないので知りません。しかしストレートに書くより、このまわりくどいやり方のほうが読者にインパクトを与えるということは知っています。

 読者は、直接書かれていることをなぞる形でイメージするより、触発されてみずからイメージを喚起するほうが強いインパクトを残します。ある意味、作者との間でイメージの共同作業をしてることになる。イメージを読者に大きく委ねるため、受け取られるイメージは読者によって大きく違ってくる。が、それが読者にとっては自分の固有のイメージとなって残るため、愛着も湧くわけです。

 この考え方は、実は絵描きとして表現活動していたころに見つけたものです。一枚の絵に対して、一人一人返ってくる反応がまるで違う。一つの絵からぜんぜん違うものを見ている。観る人が作品を再構築している。

 それ以降僕は、絵画によって主体的に何かを表現しようという意識を捨てました。刺激的な絵であれば、観る人はそこから何かをつかんでくれる。コラボレーションなのです。受け取り手がそれぞれに作品を完成させるのです。

 当然のことながら、作品の価値というものも相対的になり、観る人それぞれにより、価値が異なる。作品というものは作り手と受け取り手の中間にあって、どちらの専有物でもないと思う。


 読者にイメージを喚起させる手法について書ければいいんだけど、まだ書けません。出し惜しみではありません。僕自身、まだ発展途上なのです。これから技術を磨く必要があります。経験でやってますけど、教えられるほどの確たる手法なんて、つかんではいないのです。

 今年の初めに出した「二つの小宇宙」に収めた二つの短編も、手探り状態ながら、自分なりの手法を試みています。それを頭に入れて読むと、作り手の手わざが透けて見えるかもしれませんよ。

ひょっこり通信 2006.3.5




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