投げておしまい、という話ではありません




モグラにボール



 発信と表現が僕の活動の中心軸ですが、自分なりにそこへ「コミュニケーション」という隠し味をきかせているつもりです。

 発信と表現は一方通行のように見えます。ですが、受け取り手がいなければ成り立ちません。無視して一方的に垂れ流すだけの人は、気にしないで垂れ流していればいいんです。人に届けるつもりがあるなら、受け取り手を視野に入れるのは当然です。


 絵などを創作する場合、誰にも見せるつもりがないという場合を除き、鑑賞者は存在する。絵を見る人は一枚の絵に対し、全員が異なった印象を持つ(はずです)。ということは、画家が固定的なイメージを持って描いたとしても、その通りには受け取ってくれないことになる。このポイントはきちんと押さえておく必要がある。

 僕自身は絵を描く場合、ヴィジョンや意図を持ちません(たいがいの人は同じと思う)。描くのはイメージのみ。

 絵というものは画家と絵、絵と鑑賞者、という二つの関係があります。重要なのは後者の絵と鑑賞者の関係だと僕は思っています。見る人が自由にイメージを上乗せしてくれることを企図する必要がある。この「上乗せ」部分に作品の価値があります。要するに、いかにして人を乗せるか、ですね。

 作品の価値なんて、あってなきがごとし。百人いれば百種類の値段が存在します。創作物の主役は創作者じゃなく鑑賞者(受け取り手)にあります。そこをはきちがえて、狭い自分のヴィジョンとかなんとかを受け取り手に押しつけようとしても、通用しません。

 そこにコミュニケーションという隠し味がきいてくる部分があります。コミュニケーションというものは一方通行ではありません。常にどういう受け取り手が存在するのかを意識する必要があります。


 リアクションは大切な情報ですが、僕は自分から感想を求めることがありません。こっちから求めて返ってくるのは、こっちの想定する範囲内の反応。それは必要ない。

 求めると受け手が配慮し、めったに異論をぶつけてこない。想定外の反応こそ価値がある。なのでこちらからは求めない。


 話は少しずれるようですが、友人関係はギブ・アンド・テイクが原則です。それを理解しない人もたまにいます。

 いい友だちは心地よい関係を持てる人。だから相手にとっても心地よいことが大事。

 相手が望んでいることを読み取る。友人間のコミュニケーションは発信行為と重なる。読み取ること、読み取ろうと努力すること。友人関係の場合、「理解する」という言葉に置き換えていい。理解しようと努めていると、相手に感じ取ってもらうことも大事。

 要するに、人と関わる行為はすべて、「一方通行ではありえない」という話なんです。


ひょっこり通信 2017.2.12





「コミ能+発信力で百万馬力」 ・・・発信力を左右するのはコミ能である

「六十にして耳順う」 ・・・人とのコミュニケーションの取り方

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