世間の評価て、なんぼのもんやね




世世間の評価て、なんぼのもんやね



 30年あまり前にジョン・レノンの『イマジン』というLPを買った時は、彼がビートルズとかいうグループの一員だったことを知らなかった。ビートルズの名前は知っていた。ジョン・レノンの名前も知っていた。オノ・ヨーコは知らなかった。

 僕の世代でビートルズを一枚も買わなかったのは僕ひとりだけではなかろう。でも、ビートルズを「たくさんあるロックグループの一つ」としか認識しないのはかなり珍しいのではないかな。僕は、ビートルズが神格化されすぎていると思ってます。

 なんにも知らずに買った『イマジン』だが、その当時は素晴らしいレコードに思えた。しかしあとになってふり返ると、そのあとに買ったエルトン・ジョンの『マッドマン』やジョニ・ミッチェルの『夏草の誘い』などの傑作群に、足元にも及ばない。内容評価は別にして世間では『イマジン』のほうがはるかに有名だ。有名なもののほうが世評は高い。世間の評価なんてそんなもの。


 若いころは無知だったし、自分の好みを確立していなかった。だから人の情報、メディアの情報をうのみにした。自分の好みがつかめてからはそれなりの選択をした。といっても僕の買い方はそうとうに乱暴だった。なんの情報もなく、名前すら知らないミュージシャンのLPを次々買った。

 不思議なことだが、人や雑誌の情報を信用して買うより、自分の直感に従ったほうがいいものを掘り出すことができた。どうしてそうなるのかは今もって分からない。盤選びに際しての「気合い」が好結果をもたらすのだろうか。さすがに今はアンテナが錆びついてきてるので、試聴して買うことが増えた。試聴できるって、いいね。


 映画の選択も似ている。昔はキネ旬のベストテンだの内外の賞だのをうのみにし、評価の高いものを優先して観た。その結果、分かったのは、世間の評価と自分の評価とは、えらく差があるなあ、ということだった。

 賞というのは自分にとってなんなのか、ちょっと考えてみようよ。どこの誰ともしれない馬の骨連中が勝手に評価して賞を与えている。アカデミー賞もカンヌ映画祭も、参考情報程度にはなるだろう。だが、信頼するほどのものなのか。賞はその時の業界内の空気で左右されることが多い。その部分を割り引いたうえで参考にすべきだ。


 アカデミーもカンヌもキネ旬も権威の衣をまとう。テレビや新聞、雑誌に教科書、文化人や学者や著名人の発言。なんでも権威になりうる。あまり意識されないままに、権威的な影響力を持ってしまう。

 世間ではなぜ権威の押しつける価値観をありがたがるのか。ややこしいことは考えず、価値判断をすべて安心して委ねられるからではないか。いちいち自分で情報とって判断してたらしんどいしね。世間の価値基準や大きな権威に寄り添ってたほうが楽だしね。

 人は権威によりかかり、権威を利用する。権威に権威づけし、権威が権威づけする。ブランド権威が幅をきかす。権威に寄りかかることによって思考力と判断力がさびついてしまう。いつしか権威は増幅され、肥大し、巨大化する。権威による価値判断の一点集中化が、まわりの良質なものを沈没させてるのではないだろうか。

 ある女性が準ミスと聞いて、ろくに見ないで「へえそう、きれいね」と反応した人がいた。それ見て思わず吹き出してしまった。ものの価値は、それに対する自らの価値判断ではなく、与えられた賞で決まるという典型例だった。感性も判断もないままに流されるということは、目を腐らせ、だまされやすくなるということだ。


 得心のいかないことにいちいち疑問を突きつけるのは僕の悪癖のようなものです。こんな懐疑的な人間ばかりなら、世の中まわっていかない。踊る人、踊らせる人、踊らされる人で、世の中成り立っている。踊らぬアホウは一人で充分。と、思いつつも、ひっかかってしまいます。


ひょっこり通信 2006.3.5




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