月の裏側のリュウ









船越聡
            『月の裏側のリュウ』


  1.

 暗い夜道だった。犬がこちらに背を向けて何かをしている。夢中になってやっている。ものをくわえ、振り上げたり下ろしたり。いったい何をしてるんだろう。

 まわりこんで、犬の足元に転がっている数個の物体が何なのか見た。積み木だ。積み木をくわえては積んでいる。

 なんだ、リュウじゃないか。ずいぶんひさしぶりだなあ。長い間姿を見せないで、どこいってたんだ。やってることはあのころとまったく同じ。何が面白いのか、見まねで積み木を積んで山を作るだけの遊び。

 そうか、これは夢なんだ。そうなんだ。だから現われたんだ。

 リュウはくわえた積み木をポトリ落とした。うしろの気配に気づいたのか、首をひねり、ふり返った。ぼくの姿に目をとめた。ウー ッ。うなっている。

 「おいおい、リュウ。忘れたのか。ボクだよ」

 声を聞いたとたん、リュウの険しい顔がゆるんだ。しっぽふって近寄ってきた。両前足をつき出して地面をたたく。どんなふうに歓待していいかわからないというように、頭をせわしなく動かす。

 「よしよし、ちゃんと覚えてたんだね。いい子だいい子だ」

 しゃがんで、すり寄ってきたリュウのあごをひざの上にのっけた。頭をなでると、フー、フーと満足そうに息をもらす。近くで見るとずいぶん毛並みが荒れてるのがわかった。もうすっかり老犬だ。

 「なんだかずいぶん年とったみたいだな。最後に会ったときもこんなふうだったかな」

 顔をのぞきこんでも、リュウの目は何も語ってくれない。

 「長いこと見なかったなあ。どうしてたんだい? いったいどこに消えてたんだ? でも、またきっと会えるだろうって思ってたよ。待ってたんだよ、ずっと」

 円を描くようにしっぽをブンブン振り回し、鼻息荒く胴体をぼくの足にぶつけてくる。感極まったかのような激しい喜びの感情がぼくに伝染する。

 突然、スッと体が離れた。何もない方向へリュウは注意を向けている。だれかやって来るのかと思って耳をそばだて、目をこらしたが、何も来る気配がない。

 暗いから夜道だとばかり思ってたが、まわりを見ると地面の上には何もない。何もない空間がうす気味悪いほどにどこまでも続いている。

 地面は平らではなく、ゆるやかに波打ち、ざらついている。ふれるとアスファルトではなく、土だった。土くれはもろくて乾いている。

 空には星が見える。ここはどこなんだ。遠くのほうに、空と大地の境目がかすかに見える。月の裏側にでも来てしまったんだろうか。リュウ。いなくなったと思ったら、こんなところに姿を隠していたのか。

 リュウは、何に向かってなのか、クゥ〜ンと小さく鳴いた。張りつめていた表情がくずれ、心なしかつまらなそうな顔つきになった。そしていつもやってたように、首を曲げて足元を見ながら、座りごこちのいい姿勢をさがすかのようにクルリと体を一回転させた。ペタン。腹ばいになって、あくびした。

 すぐ近くにぼくがいることなど忘れたかのように、あらぬ方角を見るともなく見ている。相変わらずだ。気まぐれもいいとこ。気分がクルクル変わって、何を考えてるのかわからない。

 すました顔してぼくを無視してるリュウを見た。いいよ。たとえ気まぐれでも。夢の中でもいい。会えればぼくは嬉しい。



  2.

 ドアを閉めるゴトンという音と、それに続く鍵のかかる音で、ちひろが勤めに出たのがわかった。台所の物音で先ほどから目は覚めてたが、起きられなかった。起きなければいけないと思う。でも体に力が入ってこない。

 ぼくを前にして、ちひろはこのところ不機嫌に沈黙していることが多い。口数の多かった彼女のイメージがあるだけに、不気味だ。ある日いきなり「出ていきます」と宣告されるという、妄想とも予感ともつかないものが時どき脳裏にひらめく。

 かつては友人たちからも、似た者夫婦とよく言われたものだ。「一心同体と言ってほしいね」なんて、ノロケともとれることをいけしゃあしゃあとほざいたものだ。

 ぼくたちの関係を知らない人から「双子の兄妹ですか」と言われたことがある。

 「そんなに似てるぅ?」
 「似てるのかなあ」

 びっくりして、ちひろと顔を見合わせ、互いの顔をまじまじと見た。そんなことも思い起こされる。

 気の合うパートナーだったのは間違いない、最初のうちは。それが今、同じ屋根の下にいながら赤の他人一歩手前だ。いつからこんなに気持ちが遠く隔たってしまったのだろう。ぼくが失職してから溝が深まったが、それ以前から亀裂が始まっていたのはたしかだ。

 ひとりきりになったので起き直った。深く物事を考えるには頭がまだ全開状態から遠い。腕をひろげ、大きく伸びをした。

 夢の記憶の断片が頭をよぎった。心地よい夢の記憶だったので、全身の動きを止め、記憶を再現しようと試みた。

 なんの夢だったか。ああそうか、リュウの夢か。わかってしまうとばからしかった。笑いが腹の底からわいてきた。なんだか妙な話だ。リュウなんて犬、現実にはいやしないのに。

 あれは子供のころに見た夢の世界だった。リュウはしょっちゅう夢の中に現われた。

 犬を飼ったことは一度もなかった。飼える環境になかった。夢は、ほしくてたまらない気持ちの表れだったのだろう。

 夢と同じ犬が現実のどこかにいるんだと、当時は思っていた。だから、似た犬を見かけるたび、リュウではないかと確かめずにはおれなかった。

 中学の3年ぐらいまでは夢の中でしばしば見かけたが、見なくなったなと思ったら、それっきり、一度も現われなかった。

 会わなくなって忘れるということはなかった。それどころか、心の中にぽっかり穴があいたようだった。

 会いたかった。どこにもいるはずのない犬の姿を血眼になって追い求めた。人家の庭先、街路、公園、車の中と、さがしまわった。

 諦めることはしなかった。今もどこかにいる。いや、もう生きちゃいないだろうけど、たしかにいたんだという確信を持ちたかった。

 消えて二十年近くたつことに思い至った。そんなに昔だったのか。リュウの姿かたちは今でもくっきりと思い浮かべることができる。今朝見たばかりだからイメージは鮮明だ。

 描いてみたくなった。リュウを描くなどということ、これまで考えたこともなかった。

 思い立つと、急に体が軽くなった。机の引き出しに何か描くものが入ってないかさがした。色鉛筆があった。これでいい。

 スケッチブックは棚のいちばん上にのっかっていた。たっぷりほこりをかぶっている。ブラシを取り、スケッチブックをそっとベランダに運んでほこりを払い落とした。

 簡単に描けそうに思えたのに、実際に描きだすと難しかった。頭の中にはイメージがあるつもりでいるのに、実体化しようとするとイメージのとおりになってくれない。印象だけでは描けないんだ。

 「これは本腰入れてかからんと無理だな」

 頭の中でしっかりフォルムやヴォリュームをつかみとり、さらに色みや質感を思い描いた。それからそれを少しずつ忠実に再現する作業にとりかかった。下描き段階で四五回描き直し。形が決まったら丹念に彩色していく。

 体をうしろに引き、描いたものを眺めた。まあまあの出来だ。特徴はとらえている。さらに何箇所か細かく手を入れ、いったん終わりとした。

 最近さっぱり描かなくなったから、描けるんだろうかと思ったが、けっこうやれるもんだ。

 外形としてはほぼ再現できてるようだが、リュウのキャラクターイメージがいまいち出てない。もう一枚描いてみよう。

 まさかぼくがリュウの絵にハマリこむとは思わなかった。こんなふうにノッてくると、心はすっかり五月晴れ。

 顔の表情を描いていると、それがあまりによく似ている気がして、思わず手を止めて見入った。絵の中の犬を見ているうちに懐かしさがこみあげてきた。

 夢の中で、ぼくはリュウとこれまでどんなかかわり方をしていたのだろう。少しずつ記憶がよみがえってくる。涙が頬をつたっているのに気づき、驚いた。どうしたんだろう、いったい。

 子供のころに自分がどんなことをしていたのかを、これまで思い返すことはほとんどなかった。そんなものはすべてつまらないことばかりで、今の自分とはなんのつながりもないこととして、切り捨ててきた。しかし今、無力だった子供のころと変わりないような気がしている。

 着実に能力を積み重ねて、昔の自分とは別人といっていいほどの有能な人間になったつもりでいた。しかし一度つまずきを経験してから、客観的な視点で自分をふり返ってみると、ぼくはそれほどたいしたものを持っていないってことがよくわかった。平凡であることが身にしみてきた。

 夢の記憶とともに、遠のいていた過去の断片が次から次へと数珠つなぎになってよみがえってくる。楽しいこともいっぱいあったはずなのに、思い出されるのはなぜかみな、悲しいことばかりだった。



  3.

 ゴトンとドアの音。ちひろが戻った。

 「ウウゥーン。いいにおいね。揚げ物のにおい」
 「タイミングいいなあ。もう用意できてるからね、先に食べ始めてくれていいよ」

 ふり向くと、ちひろはキョトンとした顔してつっ立っている。

 「どうした?」
 「ウン? ああ、着替えてくるからね」

 ちひろはくるりと身をひるがえす。

 なに考えてんのかな? 不審に思ってチラと彼女の後ろ姿を見た。

 そうか、ぼくの様子がいつもと違ってると思ったんだ。自分じゃいつもどおりのつもりだったが、朝からの浮いた気分が尾を引いている。ちひろも今日は明るい声だ。意識して声を明るくしてるのか。

 火を止めた。油を切ったフライを皿に移した。換気扇を止めた。包丁とまな板を拭ってかたづけた。手を動かしながら、ちひろが思ってることを想像してみた。

 帰ってきた時はたいてい陽気だった。古い友だちから連絡があったとか、ちょっとしたもらいものがあったとか。それほど重要とも思えないことを彼女は楽しそうに喋った。それも毎日のように。

 重たい空気を二人の間に持ち込みたくなくて、何かと気を使っていたのだろう。彼女の側からのささやかな努力なんだ。そうなのか。今までそれに気がつかなかった。向き合うことを避け、対話から逃げていたのは、いつもぼくのほうだったんだ。

 居間のほうを見やった。やけに静かだ。来ない。なにしてるんだ。

 「オーイ。もうできてるんだよー」

 居間に入ると、ちひろは外から帰ったままのかっこう。じっと動かず、電子ピアノの前の椅子に座っている。

 「何をしている?」
 「エッ」

 ふり返ったちひろの顔を見て動転した。

 「どうした。なに泣いてるんだ」

 涙が頬をつたっている。ちひろは電子ピアノの上の小さな額縁を指さした。

 「これ、どうしたのよ」

 額には、何枚か描いたリュウの絵のうちの一枚を入れた。得意げに積み木をくわえて、上目使いにこっちを見ている。小首をかしげたしぐさがリュウらしくて愛らしい。

 「気が向いて…、古い絵を外して入れ替えたんだけど、気に入らなかったか。元に戻すか」

 「そうじゃないっ。この絵、いったいどこにあったのよ。この絵ー」

 「今日、描いたやつなんだ。すごくリアルで、自分ではよく描けてるつもりだったんだけど」

 ちひろは不思議そうな顔してぼくを見た。

 「どうしてわたしの犬、知ってるの?」

 えっ、と声をあげ、口をつぐんだ。なんのことを言ってるのか。

 「この犬、わたしのマロよ。知ってたの? 昔から」

 勘違いしている。これはちひろの犬じゃない。ぼくの犬だ。

 「知らんよそんなの。犬なんて飼ってなかったじゃないか。だいいちこれは、マロなんていう名前の犬じゃあない」

 ちひろの目がいつもの強情さを取り戻したようにぼくをにらんだ。

 「飼ってたんだって。昔。ずっと前、子供のころ。もう死んで、いなくなってるけど」

 ぼくはポカンと口を開いたまま、硬直したように立ちつくした。

 「言っとくけど、これはぜったいマロよ。こんなふうに積み木くわえてね、いっしょに遊ぼう、って誘ってるの。わたしに向かってよ。ほかの誰に、でもないのよ」

 額をとり、いま一度、犬の絵を凝視した。妙に気分が高揚してきた。

 机に放り出したままのスケッチブックをとって開き、今日描いた絵を見た。五枚描いたうちの一枚。こちらのほうが気に入ってたが、大きくて額に入らなかった。開いたまま、ちひろに見せた。

 「今日描いたものだ。今朝、夢の中に現われた犬。リュウって名前の」

 ちひろの目は大きく見開かれた。ひざの上に乗せ、くいいるように犬の絵を見ている。

 「いつごろだったの? マロが生きてたのは」

 ちひろは絵から目をあげずに答えた。

 「生まれたのは、わたしよりちょっとあと。中学三年の夏、旅行いってる間にね、死んだの。交通事故。帰ったら、もう埋葬されちゃってた。死に目には会えなかった…。わたしってさ、親が死んでも悲しまない人間なの。でも、マロは家族以上の存在なの。いなくなったけど、今でも自分の片割れだっていう意識が残ってる」

 一瞬、ちひろの表情の中にリュウが見えた気がした。ちひろはリュウ、いや、マロに似てるんじゃないか。いや、そういうことではなく、ぼくとちひろは互いに、相手の顔にマロとリュウの面影を見て、それに惹かれたのではなかったのだろうか。

 不思議な思いでちひろの横顔を見つめた。彼女はもう、穏やかな表情に戻っている。懐かしげな笑みがあらわれ、語らっているかのように犬と向かい合っていた。



 〈了〉

2021.10.31

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