雪白船越聡
|
『雪白』 山の上のほうで様子伺いしていた冬が、意を決したように町なかへすべるように降りてきた。病院の窓の外で雪がちらつき始めている。落ちてくる雪を、若い娘が病院のベッドの上でくいいるように見ていた。 ゆきだおれて行路病院に収容され、臨月だったので、急遽産院へ転院させられた。身寄りもお金もないこの若い娘は、生活保護が簡単に受けられると病院から教えられ、言われるまま、手続きをした。 娘は女優をめざして劇団に入ったものの、心酔していた劇作家にもてあそばれた末に捨てられたのでした。行くあてもなく、冬空の下をさまよううち、ついに倒れてしまったのです。今は入院費を心配することもなく、無事子供が産まれてくることだけを願っていればいいのだと知り、心が安らいでいくのを覚えました。 願いがかなえられるものならば、あの白い雪のような美しく清らかな女の子がほしい。娘は祈るような思いで、舞い落ちる雪を見つめていました。 それから10年。女優の卵は大スターに変身していました。 女優、雪代ユキは、鏡に映る自分の顔をうっとり眺めました。きらびやかな瞳が鏡の中から見つめ返している。ゾクゾクするような色香。華やかでチャーミングな顔立ち。この美しいお顔に人はみな夢中になるのだわァ。オッホホホホ…。 「かあちゃん、かあちゃん」 背中からの女の子の声に、ユキは一瞬にして現実に引きずり戻された。鏡の隅っこに、指しゃぶりしてるボサボサ髪の少女が、目をギョロつかせてつっ立っているのが見えます。 「かあちゃんかあちゃんかあちゃん、かあちゃんってばあ」 「あー、もう、ウルサイ。お前なんかわたしの子じゃないっ。橋の下で拾った子よ」 「橋の下に保育ケージがあるのか?かあちゃん。腹へったよ。ベーグル買いにくから、お金」 いくらチャラチャラした可愛い服着せてやっても、一度として似合ったためしのないわが娘を一べつし、ユキは絶望的にため息をつきます。ユキは娘に小遣いを渡し、視界の外に追い払いました。 「どーしてあんな下品でみっともない子ができるのよ。ぜーんぜん希望とちがうじゃないの。あんな子、いったいだれに似たのかしら」 順風満帆の人生の中、娘の美々だけが頭痛の種です。自分と似た、美しい玉のような子が産まれると思ったから産んだのに、とんでもない計算違いでした。憎たらしいわが子を見るたび、産むんじゃなかったと思う今日この頃です。 気を取り直し、ノートパソコンを立ち上げてCircleにアクセスしました。憂さ晴らしにはこれが効く。ユキはここ何か月間、チャットにハマりきっていたのでした。 「今日もおいでになってらっしゃるかしら」 いました、いました。目当ての君が。 シミケン:オハヨーございます。清水健太郎でございます。 スノーク:まあ、シミケンさん。お早うございます。 シミケン:好きなー 女に裏切られてー 笑いを忘れた道化師がー スノーク:あの、あのう…。 シミケン:すーがる失恋レストラン もうおどけることもない スノーク:ちょっとちょっと、シミケンさん。 シミケン:今はー スノーク:あ〜 シミケン:どうかなさいました? スノークさん。 スノーク:シ、シミケンさんに聞きたいことがあるんだけど。 シミケン:なあんなりとお聞きください。 スノーク:この世でいちばん美しい人は、だあれ? シミケン:またまた。いっつもおんなじこと聞くー。 スノーク:何度でも言って。 シミケン:変な人だね。それはだね、雪代ユキ… スノーク:ウン、ウン。 シミケン:と、言いたいとこだが、昨日から順位が入れ替わった。 スノーク:ナニッ! シミケン:トップは雪代美々ちゃんでーす。 スノーク:エーッ! シミケン:月刊綺羅星に載った超美麗写真、見たんだもんねー。 ユキはあわてて雑誌を捜してその写真のある頁を開いた。美々がユキの脇に立っている。生意気にも、すっごく可愛く写っている。 写真撮られる時だけ、パッと天使のように美しく変身できるのは、実は親譲りの得意技なのですが、頭に血がのぼった大女優はそんなこと気がつきません。 「ぶっ殺してくれよう!」 ユキにとってのわが子は、聞き分けがよく従順で清らかな女の子です。イメージどおりじゃない子はわが子ではありません。ただでさえ不要な無駄飯食いが、今では親の地位を脅かし始めたのです。 付き人を呼び、美々を適当な場所で「始末」するよう命じました。 「かしこまりました」 命令を受けた青年は、ベーグルをパクつきながら戻ってきた美々を手招きしました。「アンディ・ラウの記者会見場にもぐりこませてあげるよ」と言うと、美々は嬉々として付き人についてきた。 この付き人はいずれはユキ以上の大スターになるという野心を持っていました。自分の成功のためなら手段を選ばない冷たい心の持ち主です。美々を始末することにもなんの疑問も感じていません。 「美々ちゃん。あそこに背の高いテレビ局のビルが見えるだろ。あの中にアンディ・ラウがいるんだからね」 そう言いながら、たくみに狭い路地道へ誘いこみます。 「こっちだよ。ちゃんとついてくるんだよ」 付き人は後ろからピタンピタンという足音がついてきてるのを聞きながら、さてどこで始末をつけようかと考えました。ふと、足音が横に並んで、追い抜いてしまったのに付き人は気づきました。ハッとなってあたりを見まわしましたが、美々の姿がありません。 「ケケッ…」 頭の上から声がした。顔を上げると、美々が高い塀の上をピョコピョコと早足で歩いています。 「美々ちゃん! 危ないから下りなさい」 「こんなもん、ポケットに入れてるほうが危ないわあい」 美々の手にはレミントンのフォールディングナイフがありました。付き人の男はあわてて上着のポケットをさぐりました。そしてもいちど見上げて青くなりました。 「あっ、危ないから、そんなものヒラヒラさせちゃいけない」 「じゃ、放す」 付き人は「ギャッ!」と悲鳴を上げてとびすさりました。体で受け止めたら骨まで刺し貫いてしまいます。 付き人がナイフを拾って顔を上げると、美々がいない。遠くのほうで「ケケッ、ケケケッ」と声が聞こえます。美々が塀から屋根にとび移るところでした。スレート瓦の上をピタピタと足早に走り去って、すぐに姿が見えなくなってしまいました。 付き人は追いかけて、日が暮れるまで捜しまわりました。結局はくたびれはててしまっただけで、美々を見つけることはできませんでした。 家に帰るのはなにやらヤバそうな気配だと察して、美々は家からどんどん離れていきました。綱渡りの要領で電線を歩き、電柱から電柱へ移動しました。 暗くなるにつれてくたびれてきました。安心して休めるところはないものかと、変圧器の上に腰かけて見渡しました。橋の下やビルのすきまには、すでにホームレスが段ボールハウスを作って住みついています。臭そうだし、仲間入りする気にはなれません。 広くて立派な公園を見つけました。よく手入れされたきれいな庭園です。電線を移動して近づいてみると、丈の高いホソイトスギの並木の合間に一軒の小屋がありました。屋根にとび移り、天窓からのぞいてみて、用具の物置小屋か何かだろうと判断しました。 窓を引き上げると、窓枠のすぐ下がベッド。なんと、七段ベッドです。疲れてましたので、深く考えることをせず、美々はいちばん上のベッドに転がり、そのまま眠ってしまいました。 しばらくすると、外からワイワイガヤガヤにぎやかな話し声が近づいてきました。戸をあけて入ってきたのは、小人症の中年男が七人。みな、公園の管理の仕事を請け負っています。 陽気な顔が赤らんでいるのは、外の仕事で日に焼けたせいだけではありませんでした。軽く一杯やってきて、上機嫌なのです。 「うしろから押すんじゃないよ。狭いんだから、壁に顔をぶつけて、バナナみたいにつぶれちまうじゃないか」 「ぶつけたら、でこぼこの顔が平らになって、ちっとは見られるようになるってもんだ」 「言ってくれるじゃないか。ところでお前さん、酒のつまみに何食ったんだい? 甘ったるいにおいをプンプンさせて」 「おおかた、生クリームでもちびちびなめながら飲んだんだろう」 「オレじゃねえわ。においは上からじゃねえか。ホレ、天窓があいてる」 そう言って、一人がベッドにのぼって天窓を閉めようとしました。いちばん上にたどり着いた瞬間、「ひょーっ」と声を上げました。 「女の子が寝ておるわい」 それを聞いて残りの六人もイソイソとのぼってきました。 「いったいどこの誰じゃい」 「なんとも愛らしい寝姿じゃないかい」と、小人の一人が、美々の鼻先をちょんとつつきました。 「なんて善良そうで純真そうな目なんだろう。どうしたらこんな目になるんだろう」目つきが悪くて陰険そうに見える一人は、美々の目をのぞき込みました。 「なんてすべすべした、なめらかで形のいい足なんだろう」足がひどくガニ股になっている一人が、美々の足をなでさすりました。 「オイラはこんなもんで満足するよ」ぶよぶよと余った肉があちこちから垂れ下がっている一人は、ニタニタ笑ってひたすら美々のお尻をなでまわしています。 まわりのあまりのにぎやかさに、美々は目を覚まし、小人たちを見て目を大きく見開きました。 「ぎゃっ。なにこのブ男の集団は!」 ユキはCircleの会員からの目撃情報で、美々がまだ生きていることを知りました。失敗した上にユキをだました付き人は袋だたきにされ、追い出されてしまいました。 美々が生きているかぎり、ユキはトップスターとしての座を脅かされつづけると、不安にかられました。安閑としてはいられません。人をあてにせず、自分で出向いて始末をつけてしまおうと決心しました。 ユキは物売り女に変装し、美々の姿が見られたという公園まで出かけました。 「えー、おせんにアンパン、かりんとう」 ベッドでひとり寝てた美々は、好物のかりんとうという言葉ではね起きた。ベッドから飛び降り、玄関ドアから飛び出した。 「待ってー。行かないでー。かりんとうちょうだい」 さっそく釣られて姿をあらわした愚かな娘に、ユキはほくそ笑んだ。 「あいよ。一袋百円のところ、今日はサービスデーだから五十円でいいよ」 美々がポケットをさぐると、昨日のベーグルのお釣りの五十円玉が一枚だけありました。もう一袋ほしいところを諦め、一つだけ買いました。 「はい、毎度ありがとうね」 美々はかりんとうの袋を受け取ったとき、独特なマニキュアの色艶に目を留めました。 ユキはくるりと背を向け、「くくくっ」と含み笑いをもらした。あとはもう用はないと、一直線でマンションに引き上げていった。 食いしん坊の美々が誰にも分け与えず、一人で全部食ってしまうことをユキはわかっていました。たとえ一部だけしか食べなくっても、毒がまわって顔が変形してしまうはずですし。 夕方、七人の小人が小屋に帰ってくると、美々の姿がありません。テーブルに書き置きがあり、上にかりんとうの袋がのっけてありました。 「おかーさんにいばしょを見つけだされてしまったので、出ていきます。サヨーナラ」 小人たちは、いきなりの別れに悲しくなって、オーイオイと泣きながらかりんとうをかじりました。たちまち毒がまわり、七転八倒のたうちまわり、全員気を失いました。 折り重なって倒れていた七人は、夜中に息をふきかえし、ムクムクと起き上がってきました。すっかり真っ暗になっていたので、一人がランプに火を灯した。 「あー、ひでー食あたりだったな。油が古くて酸化しとったんじゃないか」 「あっ、おい。お前の顔、どうしたんだ」 「ナニッ。そう言うお前はいったい何者なんだ。見かけない顔じゃないか」 「なあんてことだ。みんな顔かたちが変わってしまってるじゃないか」 全員、互いの顔や手足を見較べあいました。それぞれの変形していた体の部分が再変形して、すっかりまともになっていました。 週末のオフィス街はゴーストタウンのようです。美々は人けのない道を行くあてもないまま、ブラついていました。 前から変なおじさんが歩いてくる。髪はクシャクシャになって逆立ち、ヒゲぼうぼう。火の玉の絵のTシャツにバミューダパンツといういでたち。ギターを肩ひもで背中に吊し、うつむきかげんで右へ左へと揺れながら美々のほうへ歩いてきます。 美々は警戒して足を止めた。待ちかまえていると、おじさんは深刻な顔でブツクサつぶやきながら、美々の脇を素通りします。 「オイッ、おっさん」 呼び止められてふり返り、おじさんはそこにいる美々に初めて気がついた。 「なんやねんや」 にらみつけ、ダルそうな声でこたえます。 「なにブツブツゆうとんねん」 つられて美々も関西弁になってしまいました。 「コントの台本考えてたんやんか。ほっといてくれんか」 「念仏となえて、自殺しよんのかと思たわ」 「アホぬかせ。まだこれからひと花咲かそかいう時やのに」 「なあんか、キタナそうな花やな」美々は無遠慮におじさんを眺めまわした。 「失礼なガキや。これはワシのスタイルや。ワシは漫才師なんや」 「テレビで見たことないで」 「テレビに映らんでも漫才師は漫才師。今はコンビ解消して一人になってしもたけどな」 「一人でボケとってもマジアホと思われるだけやで」 「えらいツッコミまくるな。ワシとコンビ組まんか?」 「ええけど、なんか食わしてくれるか」 「おう、おう。まかしとけ」 こうして、美々は変なおじさんについてくことになりました。 「コンビの相手はどうしたん?」 「DJやっとるわ。シミケンゆうやつ。ワシはジミヘン。コンビ名はシミ・ジミ。全然受けんかった」 「受けんよなあ。ワイは美々やねん。ほんならコンビはミミ・ヘン?」 「めっちゃしょーもないこと言うわ。こんなんでほんまに受けるやろか」 先は多難ながら、二人は新たな人生へのステップを踏み出し始めました。 シミケン:愛をーなくしたー 手品師などは 恋の魔術を使えないー スノーク:シミケンさん、シミケンさん。 シミケン:なんじゃ? スノーク:この世でいちばんチャーミングな女性は? シミケン:まーたまた。ちっともコリント式のイオニア式。 スノーク:お願い。言って。 シミケン:ハイハイ。それは雪代ユキさんでございます。 スノーク:美々はいなくなったのね。 シミケン:ワシの弟分と漫才コンビ組んでるわ。 スノーク:エエーッ! シミケン:むっちゃ三枚目やっとる。オモロイけど、降格。 スノーク:まあっ。 ユキにとって美々はもうどうでもよくなりました。自分の未来に不吉な影を落とす存在は目の前から消えました。 パソコンの電源を切りました。頬杖をつき、ボーッと夢みるような目をして、じっと宙を見ています。ユキはひとりぼっちになった幸せをじっくりかみしめたのです。 〈了〉 2021.9.18 |