The Digital Spectre










船越聡
     1

 「少し寄り道していくけど。いいね」
 交差点で信号停止した時、美也はふと思い出したように助手席の笛子に言った。
 「いいけど。どこ行くの?」
 笛子は、夫が先ほどから黙りこくって運転してたのは、旅疲れからではなく、何ごとかを思案してたからだと知っていた。急に思いついて言ってるのでないと。
 「生まれ故郷がここから近いんだ。近いといっても10キロあまりあるんだけどね」
 「あらぁ、生まれは名張のほうだとばかり思ってた」
 「一度ひっこしてるんだ。小さい時にひっこしたから、ほとんど覚えてないけどね。八つの時に離れてから一度も来てないんだ。めったに来れないし、ちょっと寄って行こうかと」
 ちょっとですむのかな、と笛子はいぶかった。何か思うところがあってのことだろうけど、自分から聞くのはやめておこうと笛子は思った。
 美也は口の重いところはあるが、催促しなくても、喋りたいことがあれば言うことがなくなるまで喋りつづける。
 信号が変わった。美也はハンドルを右へ切った。
 「小さいころのことなんだ」
 町なかを抜け、刈り取りの終わった田んぼの中の一本道を走行中、美也はぽつりと言った。
 ほら、出てきた。笛子は笑いがこぼれそうになるのをこらえた。

     2

 変な話なんだけど、気にしないで聞いてくれよ。
 子供のころ、妖怪とかかわりあいがあったんだ。今でもこだわっててね、それが本当に妖怪だったのか、ひょっとしたらただの人間だったのじゃないかと、いまだ疑問が解けずに残ってるんだ。
 子供の時は何も疑いを持たないで、人から「妖怪だ」と言われたのをそのまま信じたけど、あとから思い出すにつれて、どうだったのかなあ、って。
 ずいぶん田舎だったから、妖怪がいても不思議じゃない雰囲気はあったけどね。確かめられるかどうかはわからないけど、ちょっと手がかりめいたものもあってね。
 そいつが初めて出てきたのは5歳ぐらいだったと思う。おばあちゃんの妖怪だったね、妖怪だとしてだけど。
 風邪なんかで熱出して寝てるでしょ。そんな時に現われるんよ。夢じゃないよ。それは間違いない。たぶんね、ハハ。だいぶあやしいな。
 とにかくそのおばあちゃん、熱出してつらい思いしてる時に出てきてね、気遣うような表情で、時々ぼくの顔をなでるんだ。なでてもらうと、サッと楽になるんだ。体から病気が瞬時に引いてくような、そんな感じだった。
 すごく柔らかくて、しっとりした指先だったな。年寄りの指とは思えないくらい。
 熱を出すたびに現われたね。熱が引いたあと、その人のことを家族に聞いたけど、そんな人はいないって言われた。
 うちにはそんなおばあさんはいなかったし、姿は誰も見てない。夢でも見てるんだろうって言われたよ。死神かもしれん、て、脅そうとするのもいたな。
 でも一人だけ、遠縁にあたるおばさんがその妖怪のこと知ってた。昔から、まれに現われるらしい。
 女の姿をするってことだけで、老婆とはかぎらないそうだ。もっと若い姿で出ることが多いそうだ。
 べつだん悪さをするわけでもなし。座敷童のような、一種の家の守り神だ。そう思ってたけど、大人になってからは、本当かなあって思ったな。
 ずっと気にかかっててね、故郷の人と会う機会があるたびにその話をしてみたんだが、誰もそんな妖怪のこと知らない。
 作り話じゃないかって言われた。そのおばさんが嘘つきというわけじゃない。それはたいがいの人が知っている。
 おばさんの側にそういう説明をせざるをえない事情があったんじゃないかと、そんなことも考えたね。すっきりしない気持ちが残ってるんでね、もう一度おばさんに会って、話を聞かせてもらおうかと考えてるんだ。
 本当のことを言うとね、妖怪かどうかは別にして、病気の時のおばあさんが今でもすごく懐かしく思い出されるんだ。なんだか母親よりもはるかに親しげな感情が残ってる。
 あの時なでてもらった指の感触、今でも覚えてる。優しげな目でずっと見守ってくれていたあのおばあさん。もう一度会いたい気持ちもあるけど、たぶんそれは無理だろうね。

     3

 「変わってるだろうなとは思ってたけど・・・・」
 美也は途方に暮れた顔で、前方の不思議な建物群を見つめた。のどかな田園地帯にぽっかり現われた非現実的な近未来ゾーンが美也を面食らわせた。
 「美術館か何かじゃない?」
 「かもね。こんなの知らなかったなあ」
 近づくにつれ、町立考古博物館、町立ホール、体育館などという文字が見えた。田んぼばかりの土地が文化ゾーンに変貌している。
 生まれ故郷に近づいてるはずなのに、美也はまわりの風景にまるで見覚えがなかった。道路も新しくなって、道順だけを頼りにたずねていこうと思っていた美也を困惑させた。
 「困ったな。昔の住所を知らないから捜しようがない」
 「名前で聞けばいいじゃない。誰か土地の人つかまえて、名前を言えばわかるでしょう」
 「そうだな」
 文化ゾーンの先は新興住宅地だった。手前で左に折れ、山すそに見える集落を目指した。
 「こっちだったと思う。山の形だけが目印だな」
 何もかも変わってしまったなと、独り言とも言えない小声で美也はつぶやいた。
 集落に入っても、美也はそこが昔住んでたあたりなのかどうか確信を持てなかった。
 古い農家の前庭で、古ゴザ敷いて大豆をさやから取り出す作業を続けている親子を見つけた。
 美也は門を通りすぎたところで車を止めた。美也に続いて、笛子も車を降りた。
 笛子は小さい実がたくさん残った柿の木を珍しげに見上げた。
 十歳以上には見えない少女が母親の仕事を手伝っていたが、美也と笛子が庭に入ってきたのを見て、手を止めた。
 「すみません。ちょっとおたずねしたいんですが」
 けげんそうに美也を見た母親は三十過ぎといったところ。若い母親か、古いことを聞いても何もわからないかもなと美也は思った。
 「このあたりで山村さんというおうち、ありませんでしょうか。山村さきさんとか、さき子さんとかいう方のお宅なんですか」
 「山村さんですかあ。もうこっちにはおられないですよ。サキさんいうのはおばあちゃんのことですね。その人なら5年ほど前に亡くなられましたけど」
 「えっ」
 けっこうな年だろうと美也は予想していたけど、亡くなってることはまったく考えに入れてなかった。
 「そうでしたか」
 一変した風景に気勢がそがれていた美也は、唯一の糸が切れたことで探索の意欲がしぼんでいくのを感じた。
 女の子が立ち上がり、無遠慮に美也をジロジロ眺めまわした。田舎らしい純朴そうな子で、愛らしい顔だちだなと美也は思った。
 「失礼しました」
 そう言って立ち去ろうとする美也に、女の子は手をふった。美也も軽く手をふって応えた。なんだか仲良しの友だちが帰るのを見送ってるみたいだなと、美也は微笑んだ。
 「残念ねぇ。おられなくなってるなんて」
 笛子のふわっとした声が美也の背中にかぶさった。
 「ああ・・・ もうわからんね」
 「他の親戚の家も、せっかくだから聞いてみたらよかったのに」
 「ないんだよ。そこ一軒しか残ってなかったんだ、こっちには」
 車に戻る途中、美也は笛子の反応のしかたに、どこかいつもと違うところがあることに気がついた。何なのかなと考えたがわからなかった。
 美也は車をUターンさせ、そのまま一路帰途についた。

     4

 「帰りは12時まわってしまうなあ。ちょっとの寄り道が時間食ったな」
 すでに陽は落ち、高速に乗って時間とともに車の列が流れていく。
 「いいじゃない。急ぐこともなかったんだし。わたしにとっては田舎のひなびた景色はけっこう新鮮だったよ」
 「たいして見るものはなかった気もするが」
 あくびしながら言って、美也は人懐こい笑みを見せた農家の少女を思い出した。
 可愛らしい女の子だったなあ。あんな子が自分の子供だったら笛子は文句なしに喜ぶだろうな、と思ったところで、美也ははっと気がついた。笛子が女の子をまったく無視していたことに。子供好きの笛子が、それも女の子を。笛子の反応に妙なものを感じたのはこれだったのだ。
 「何もなかったけど、あの女の子は可愛かったよな」
 美也は笛子にさぐるような目を向けた
 「女の子って?」
 笛子はけげんそうな表情を見せた。
 「農家のところでさ、ほら、おかあさんの隣に」
 そう言っても、笛子はなんのことかわからないという顔をしている。
 「私は、見なかったけど・・・ 」
 美也は一瞬にして体中の皮膚が粟立つのを感じた。同じことを昔言われたのを思い出した。
 そういや、女の子が自分を見る目に懐かしさがあふれていたようだったと美也は思った。
 そうなんだ、あれは老婆の姿をして現われるとはかぎらない。ずっと若い姿で現われることが多い。サキおばさんが言っていたことを思い起こし、美也は頭の中でくり返した。
 美也は少女の澄んだ優しい瞳を、今ははっきりと思い浮かべることができる。


 〈了〉

2021.8.31

船越屋トップページ

物語の国の目次

当ページ